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無神論者が宗教から学ぶべき事とは/アラン・ド・ボトン

無神論者が宗教から取り入れられるものにどんなものがあるでしょう? 哲学者であり作家のアラン・ド・ボトン氏が「無神論者のための宗教」(無神論2.0)として、個人崇拝などの宗教の悪い部分は無視しながらも、人間的な繋がりや儀式、超越的存在への要求を満たすための宗教的な作法や伝統など、宗教が持つ良い部分だけを取り入れることを提案しています。

(所要時間:約20分)

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動画の内容 (全文書き起こし)

世界を分ける最も一般的な方法の1つは 神を信じる人と 信じない人 信仰を持つ人と 無神論者という分け方でしょう この十年くらい 無神論者がどういうものかは すごくはっきりしていました とても声の大きな無神論者達がいて 宗教は 間違っているだけでなく 馬鹿げていると言っています そういった人の多くが北オックスフォードにいて 彼らに言わせると 神を信じるのは 妖精を信じるようなものであり 子どもじみた遊びに 過ぎないというのです

宗教全体を そのように切って捨てるのは 簡単なことです 樽の中の魚を撃つようなものです 私が今日お話ししたいのは 無神論者の新しいあり方についてです お望みなら その新しい無神論を 「無神論2.0」とでも呼びましょうか 無神論2.0とは何でしょう? まず ごく基本的な前提ですが 神はもちろんいません 神々もいなければ 超自然的な精霊も 天使もいません 先に進みましょう これで話は終わりではなく 始まりなのです

私はこんな風に考える人に 興味があります 「どの宗教も信じられない 教義を信じられない ああいう教義が正しいとは思えない」 「でも・・・」これは重要な “でも” です「・・・クリスマスキャロルは好きだな マンテーニャの絵はいい 古い教会を見るのは好きだ 旧約聖書を読むのは楽しい」 それを何と呼ぶかはともかく 言っていることはお分かりでしょう 宗教の儀式的な側面 道徳的な側面 共同体的側面には惹かれるけれど 教義には我慢できない人のことです これまでそういう人達は あまり納得のいかない選択を 迫られていました 教義を受け入れて いいものをみんな手に入れるか 教義を拒否して 精神的不毛の地に住み CNNやウォルマートの導きに従うかです

難しい選択ですが そんな選択を する必要はないと私は思います 別な道があります その道とは 全く不信心ながら敬意を持って 宗教から盗むのです 宗教を信じていないなら 宗教の良い部分だけ選び取り ミックスしていけない理由は何もありません 私にとって無神論2.0とは 敬意と不信をもって いろいろな宗教を見て 「この中で使えるのは何かな?」と考えることです 世俗の世界は穴だらけです 世俗化をやり損なったのです 宗教をよく研究することで 人生のあまりうまくいかない— 側面について あらゆる洞察が得られます 今日はそのいくつかを簡単に見ることにしましょう

まずは教育です 教育は 世俗社会が 強く信じているものです 世界をどう良くしていけるかと考える時 私達は教育のことを考え そこに多くの投資をします 教育は 商業や技術のスキルを与えてくれるだけでなく より良い人間にもしてくれます 卒業式の訓示がどんなものかご存じでしょう 教育 殊に高等教育の過程は 我々を品格ある優れた人格者にするという なんとも詩的な主張です 素敵な考え方ですね それがどこから来ているのかを思うと興味深いです

19世紀初期に 西欧で教会に行く人の数が 急速に減り 人々はパニックを起こしました 彼らはこう自問しました みんな道徳をどこに見出すつもりなのか? どこに導きや 慰めの源を 見つけようというのか? 影響力ある声が1つの答えを出しました 「それは文化だ」と 文化にこそ 導きと 慰めと 道徳を求めるべきであると シェークスピアの劇を見 プラトンの対話を読み ジェーン・オースティンの小説を読もう かつてはヨハネの福音に見出していた 真実をそこに見出せるだろう これはとても素晴らしい とても正しいアイデアだと思います 彼らは聖書を文化で置き換えたいと思ったのです うまいアイデアだったと思いますが 忘れられてしまいました

一流の大学 たとえばハーバードか オックスフォードか ケンブリッジにでも行って 「道徳と導きと慰めを求めて来ました どう生きれば良いのか知りたいのです」 と言ったなら 彼らは精神病院へ行けと言うことでしょう そのようなことは 格式高い世界最高峰の教育機関が 対象とすることではないのです なぜか? 必要と思っていないからです 私達に切なる助けが必要だとは考えていないのです 理性的な大人として私達を見ていて 必要なのは情報やデータであって 救いではないと考えています

一方 宗教は全然違ったところからスタートします 主要な宗教はすべて 折に触れ私達を「子ども達」と呼びます そして子どものように 手厚い助けが必要だと思っています 私達はかろうじて持ち堪えているだけです 私だけなのか 皆さんもか分かりませんが いずれにせよ 私達はかろうじて持ち堪えているだけで 助けを必要としています そして導きが必要であり 教訓的な学びが必要なのです

18世紀イギリス最大の 説教者であるション・ウェスレーは 国中をまわり歩いて説教をし 人々にどう生きるべきか諭していました 親の子に対する 子の親に対する責務について教え 富者と貧者の間の責務について教えました 宗教を広める伝統的メディアである 説教を通じて 人々に いかに生きるべきかを伝えようとしました

しかし説教という方法は見捨てられました 現代的でリベラルな個人主義者に 「説教なんかいかが?」と聞こうものなら 「必要ないよ 私は自立した個人だから」と言うでしょう 説教と 現代の世俗的伝達方法である 講演の違いは何でしょう? 説教は人の人生を変えようとし 講演はちょっとした情報を与えようとします 私達は説教の伝統に立ち戻る必要があると思います 説教の伝統は非常に価値があります 私達には導きと 道徳と慰めが必要であり 宗教はそのことを理解しているのです

教育についてはもう1つあります 現代の世俗社会では 誰かに何かを一度教えれば足りるものとしています 20歳でプラトンについて習ったら その後経営コンサルの仕事を40年やっていても 教わったことは ずっと身についているものと考えます 宗教は「ナンセンスだ」と言うでしょう 「教えを日に10遍繰り返す必要がある 跪いて繰り返すんだ」と それがどの宗教でも言っていることです 「跪いて日に10回でも20回でも繰り返しなさい」 人の頭はザルのようなものです

宗教は繰り返しの文化であり 偉大な真理の周りを 繰り返し回るのです 一方 私達は繰り返しを退屈に感じます 「新しいやつがいい」といつも言っています 「新しいものは古いものよりもいい」と こう聞いたらどう思いますか? 「TEDではもう新しいものはやりません 古いのを繰り返し見ましょう 真実なのですから エリザベス・ギルバートの講演を5回見ましょう とてもいいことを言っています」 きっとまやかしだと思うでしょう 宗教的な場では そうは感じません

宗教はまた 時間を設定します 主要な宗教はどれも暦を持っています 暦とは何でしょう? 暦は一年を通じて様々な重要な考えに 間違いなく出会うようにする方法なのです カトリックの年表 カトリックの暦では 3月末にヒエロニムスのことを思い その謙虚で善良な人となりや 貧者への施しについて思います これは偶然ではなく そう導かれるからそうするのです 一方 世俗的な世界ではこう考えます 「その考えが重要なものなら 放っておいても出くわすはずだ」 宗教的世界観ならナンセンスだと言うでしょう 宗教的観点では 暦が必要であり スケジュールが必要であり 出会いを仕組む必要があるのです これはまた 宗教が大切な感覚のまわりに 儀式を作り上げるやり方にも見られます

月を例に取りましょう 月を見ることはとても大事です 月を見るとき 「自分は本当に小さい 自分の問題とは何だろう?」と思い 物事を大局の中に置いて見るようになります 月をもっと頻繁に見るべきでしょうが なぜ見ないのでしょう? 誰も「月を見てご覧」と言わないからです しかし禅宗徒の場合は 9月中頃に 月見の祝いをするように言われます 家の中から出て 縁側に立ち 月を称える詩を読んで 過ぎゆく時と命のはかなさに 思いを致すのです そしてお餅をもらいます 月と月への想いは 心にしっかり根付くことでしょう これはとてもいいことです

宗教がよく分かっているもう1つのことは うまく語るということです 私はあまりうまくできませんが 修辞というのは宗教にとって鍵となるものです 世俗的な世界では大学教育を受けてもスピーチは下手で それでも仕事はこなせます しかし宗教の世界はそうではありません 語る内容は 説得力ある語り口に 支えられている必要があるのです

米国南部に アフリカ系アメリカ人の ペンテコステ派教会がありますが 彼らが語るのを聞いてご覧なさい まったく見事に語ります 強く訴えかけるポイントで聴衆は「アーメン アーメン」と声を上げ 熱のこもった節の終わりには 総立ちになって言うのです 「イエスよ感謝します キリストよ感謝します 救い主よ感謝します」 彼らがするように私達もするとしたら・・・ 今はやらないですが やるとしたら こんな風になるでしょう 「文化は聖書を置き換えるべきです」 すると皆さんは「アーメン アーメン」と応え 講演の終わりには 総立ちになって言います 「プラトンに感謝 シェークスピアに感謝 ジェーン・オースティンに感謝」 そして本当にリズムを感じます いいぞ 素晴らしい これこそ そうだ

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宗教は 私達には頭だけでなく 体もあることを よく分かっています 彼らが教えを授けるときには 体を通して教えます たとえばユダヤ教徒の 赦しについて考えてみましょう 赦しと 新しくやり直すことを ユダヤ教徒はとても重視しています それについて説教したり 本や言葉を与えるだけでなく 沐浴するように言います 正統派ユダヤ教コミュニティでは 毎週金曜に ミクワーに行って 水の中に体を浸します 肉体的な行動が 思想的なアイデアを支えるのです 私達はそういうことをしません 思想と体を使う行動とは別々です 両者を組み合せる点で 宗教は素晴らしいと思います

今度は芸術に目を向けてみましょう 芸術は世俗的世界において高く評価されているものです 芸術はとても重要なものと考えられています 富の余剰の多くが美術館などに向けられています 美術館は私達の新しい聖堂だ 新しい教会だとも言われます お聞きになったことがあるでしょう 可能性はそこにあるのに 私達は自らを失望させてきました 失望する理由は 宗教が芸術をどう扱っているか ちゃんと学んでいないからです

2つの非常に間違った考えが現代社会に漂っていて 芸術から力を引き出す能力を妨げています 1つは 芸術のための芸術というものです 馬鹿げた考えです 芸術は密封された泡の中にあって 騒然とした世界とは関わるべきでないというのです 私はまったく反対です もう1つの思い込みは 芸術は自らを説明すべきでない 芸術家は解説すべきでないというものです それをやると魔法が解けてしまい 簡単になりすぎてしまうからです 美術館で受けるあの感覚はこのためです 皆さんも覚えがあるでしょう 「これ いったい何なのかわからない」 生真面目な人は認めようとしませんが あの困惑の感覚は 現代芸術の構造的な問題なのです

宗教の芸術への態度はずっとまともで 芸術の意味を説明するのに躊躇いません 主な信仰で芸術の役割は2つ 第1に愛すべきものを 思い起こさせること 第2に怖れ 憎むべきものを 思い起こさせることです それが芸術です 芸術は— 信仰における重要な観念を 腹の底から感じる体験なのです 教会やモスクや聖堂を歩き回るときに しようとしているのは 通常は頭で理解するところの真理を 目を通し 感覚を通して 吸収するということです

実質これはプロパガンダです レンブラントはキリスト教的世界観の プロパガンダをしていたのです 「プロパガンダ」と聞くと皆警戒し ヒトラーやスターリンを思い浮かべますが 本来プロパガンダは 何かを笠に着て説教する方法のことです それが良いものであるなら 何も問題はありません

美術館は宗教を見習うべきです 美術館に歩み入ったとき・・・ 私が作るとしたら 愛の部屋や寛容の部屋を設けるでしょう 芸術作品はすべて私達に何かを語ります 様々な作品に出会い そこで語りかけられ 作品によって観念を心に刻めるよう 展示スペースを構成できるなら 芸術からもっと多くを得られるでしょう 間違った考えのため無視されてきた 芸術本来の役割を取り戻せるでしょう 芸術は社会を良くするための 道具でもあるべきです 芸術は説教的であるべきです

別なものを考えてみましょう 現代の世俗的世界では 魂に関すること 精神に関すること 高次の霊的なものなどに関心のある人は 孤立した存在になりがちです 詩人 哲学者 写真家 映画制作者など 彼らは自分だけでやる傾向があり 家内産業的で 弱い一個の人間です 1人でいると絶望や悲観をしがちです そしてあまり影響力を持つこともありません

今度は組織的な宗教を考えてみましょう 組織的宗教がするのは何でしょう? 集まって組織を作ります これにはあらゆる利点があります 第一に規模と力があります ウォールストリートジャーナル紙によれば カトリック教会は 昨年970億ドルを稼ぎ出しました ものすごい組織です 協同的で ブランドを持ち 多国籍的で 高度に統制が取れています

これらはすべてとても良い資質であり 企業に見られる特質です 実際— 企業は様々な点で宗教に似ていますが マズローのピラミッド底辺の欲求に応え 靴や車を売るという点が違っています 一方でもっと高度なものを売る人々 セラピストや詩人は 独力でやっていて 力を持ちません 宗教は 心に関わるものを取り合う組織として 真っ先に挙げられるものです 宗教が教えようとしていることに同意しなくとも 彼らがやっている組織的方法には 感心すると思います

孤立した個人によって書かれた本は 何も変えません グループになる必要があります 世界を変えたいなら 一緒になって 協力する必要があります それが宗教のやっていることです 宗教は多国籍的で ブランドがあり 明確なアイデンティティを持ち せわしない世界にあって— 見失われることがないのです これには私達が学べるものがあります

まとめたいと思います 私が本当に言いたかったのは 様々な異なる領域で活動されている皆さんは たとえ宗教を信じていなかったとしても 宗教を手本として学べることがある ということです 何か共同的なこと 大勢で— 一緒にやることに関わっているなら 宗教には参考になるものがあります 旅行業界に何らかの形で関わっているなら 巡礼に目を向けてみることです じっくり観察してみることです 旅行がどんなものでありうるか 私達は 表面的にしか理解していません 宗教が 旅行で何をしているか見ていないからです 芸術の世界にいるのなら 宗教が芸術で何をしているか見ることです 教育者なら 宗教が思想を広める方法に目を向けることです 思想の中身は置いておくとしても 宗教は思想を広めるための非常に効果的なメカニズムなのです

だから私の結論は 宗教に同意しなくとも 宗教は様々な面でとても 巧妙であり 複雑であり 知的であり 信者だけのものにしておくのは もったいないということです 私達みんなのものにすべきです

ありがとうございました

(拍手)

これはとても勇気ある講演だと思います あなたはご自分を とある方面から 嘲笑される立場に置いているのですから

両方から撃たれるでしょうね 強硬な無神論者からも 信心深い人からも

北オックスフォードからも いつミサイルが

来るか知れませんね (ボトン: まったく)

しかしあなたは宗教のある側面 多くの人が取り入れうると考えるものに 触れていませんね 実際宗教的な人にとって おそらく最も重要な 霊的な体験 自分よりも大きな何かとの 繋がりのようなものです そういう体験は 無神論2.0の中に居場所はあるのでしょうか?

ええ 私はよく「でも 我々よりも もっと大きな何かがあるのでは?」 と言う人に出会います 「もちろん」と答えると「ではあなたも宗教的でしょう」 と言われますが それには「違います」と答えます なぜ宇宙の謎に満ちた感覚 目もくらむスケールの感覚に 神秘的雰囲気を付け加える必要があるのでしょう? 科学と単なる観察が 神秘抜きでも 大いなるものの感覚を与えてくれます 必要に思いません 宇宙は大きく 我々は小さい 宗教的上部構造がなくとも明らかなことです 霊を信じていなくとも 霊的な瞬間を体験することはできます

1つみなさんに質問させてください この中で 自分にとって宗教は重要だという人は? あなたが話されていることと 彼らに言うことを橋渡しするための 同様のプロセスはあるのでしょうか?

世俗的生活にはたくさんのギャップがあり それは塞ぐことのできるものです 前にも言いましたように 宗教を持って すべてを受け入れねばならないか 宗教を持たず あらゆる素晴らしい— ものから切り離されるか という二者択一ではないのです みんながいつも 「信仰がないからコミュニティに入れない 道徳から切り離されている 巡礼にも行けない」と言うのは悲しすぎます 「何で駄目なの?」と思います それが私の話の要点です 宗教から吸収できるものは多く 無神論は宗教の豊かな源から 自らを切り離すべきではありません

TEDコミュニティには無神論者が 多いように思えます しかしほとんどの人は 宗教がすぐになくなるとは思っていないし 建設的な議論ができる 言葉を見つけて 互いに話し合い 共通なものを 分かち合いたいと思っています 宗教が 分断と戦争の鬨の声(ときのこえ)ではなく 架け橋となる可能性について 楽観的になるのは 愚かでしょうか?

いいえ 我々は違いに対して礼を持って対すべきです 礼というのは見過ごされがちな美徳です 偽善のように見えます しかし自分が無神論者で 誰かが「この間お祈りしたんだ」と言うとき 礼をもって無視し 先に進むような— 段階に 至る必要があります なぜなら9割のことには合意できるからです 多くのことについて考えを共有し 違う部分には礼をもって接することです 宗教的な争いが起きるのは それができてないためだと思います 調和的な不一致の可能性を無視しているのです

最後に あなたが提案している この— 新しいものは 宗教ではありませんが リーダーが必要では? その教祖を買って出ようと思いますか?

(笑)

私達がみんな胡散臭く思っているのは 個人崇拝です それは必要ありません 私が説明しようとしたものは フレームワークで みんなが埋めていけることを期待しています 私が描き出したのは大枠です どこにいるかに応じて 旅行業界なら旅行関係のところを 共同体であれば共同的なところを 宗教に学べばいいのです だからこれは一種の—

Wikiプロジェクトです (笑)

アラン 対話の口火を切っていただき ありがとうございました

(拍手)

引用元:TED

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