2014年12月1日 仕事・生活 タグ: TED, 教育問題
我々は人が 「何を言っているか」 に気を取られ過ぎて、 「何を言っていないか」 に注意を払わなくなっている/クリント・スミス
教鞭を持つスラム出身の詩人であるクリント・スミス氏が、我々は「人が“何を言ってるか” に気を取られ過ぎて、“何を言ってないか”に注意を払わなくなっている」と警告し、見て見ぬ振りと不公平を弾劾し、声をあげる勇気を称賛しています。
(所要時間:約5分)
動画の内容 (全文書き起こし)
マーティン・ルーサー・キング博士は 1968年の市民権運動中にスピーチをしました “最後に思い出すのは 敵の言葉ではなく 友の沈黙だ” 教師としてこの言葉を大事にしています
私たちの周りでは日々 沈黙の結果が様々なかたちで現れています たとえば差別 暴力、大虐殺、戦争 私の授業では生徒に詩作を通して 暮らしの中にある沈黙を探し 表現するように働きかけます 見つけた沈黙を埋めるため 一緒になって 認識し名付けることで理解します
沈黙は恥ずべきことでないのだと 私は自分の授業内に文化を育てています 生徒が安心して自らの沈黙を共有できる そんな文化です 4つの主要な原則を 教室の前の掲示板に貼ってあります 学年初めに生徒全員がサインしたものです 鵜呑みせずに読み 慎重に書き 明確に話し 真実を話すこと そしていつも最後の点について考えます
自分の真実を話すこと そして気がつきました もし自分が生徒から真実を求めているなら 自分の真実を打ち明けなければならないと 真実を伝え損ねたときの事も含めて 誠実に接しなければならない そこで私は伝えました
ニューオーリンズのカトリック家庭で育った 子供時代 レント祭の時期に教わりました 人間として出来る最高のことは 諦めることでした 日頃遊んでいる大切なものを捧げることで 神の神聖さへの理解を証明するのです
ソーダ、マクドナルドにフライドポテト フレンチ・キス、その他いろいろ そしてある年 私は話すことをやめました 私が犠牲に出来る最も価値あるものは 自分の声だと気付いたからです しかし私は それより遥か前にもう声を失くしていました 私はあまりに長い間 人が聞きたいことを話し 言うべきことを言いませんでした
自分の何たるかを知らぬうちから 誰かに助言すべきではない そう自分に言い聞かせました だから何も言わない時だってありました 沈黙を利用して知らんぷりを決め込み 検証することそれ自体は 声を上げずとも できるんだと気付けませんでした
ゲイを理由にクリスチャン君が暴行された時 私は手をポケットに突っ込んで 視線を地面に向け 知らんふりして通り過ぎてしまいました まるで自分の閉じた唇にかけた鍵のようで あの時は何週間もロッカーを使えなかった
街角にいたホームレスの男が 私を眺め上げていたときは 自分には一瞥されるだけの価値があると 認めて欲しいと視線が訴えていました でも私は おやつのアップルをあげるより 手に持ったアップル製品に夢中でした
チャリティパーティの際 ある女性に声をかけられました“先生たちはすごいわ 貧乏で頭悪い子供に教えるって さぞかし大変な仕事だもの” 私は悔しさを堪えました 授業を続けるには明らかにその女性の寄付が 生徒たちの尊厳より大事だったからです
私たちは人が何を言ってるかに集中し過ぎて 何を言ってないかに注意を払っていません
沈黙は懸念のなごりです 自分は間違ってるのではないか? はらわたをねじり舌を切り落とすような感覚 胸から空気がすうっとなくなるような感覚 肺の中すら安全と感じられない 沈黙はすなわちルワンダの大虐殺であり 巨大ハリケーン・カトリナです 棺桶がたらないときに 聞こえてくるのは沈黙です 縄が首を締めあげた後の音です
汚名であり、鎖であり、誇りであり、痛みであるのが沈黙なのです 戦いが先にあなたを選んだなら 自分で戦いを選ぶ余裕などもてません 私の優柔不断さに 沈黙をとりつかせない
君は獅子なのだとクリスチャン君に言います 勇敢さと輝きのあふれる神聖な存在なのだと
ホームレスには名前をたずね どんな一日だったかを訊きます なぜなら 一人の人間として認めてほしい それこそ時には誰もが願うことだからです
例の女性には 私の生徒は哲学者のように 哲学的議論ができると言い返します “ザ・ワイヤー”を1話 見たからと言って 私の生徒のことを完全にわかった気になっちゃいけません
だから今年こそ 何かを諦めるのではなく 毎日をきちんと生きていきます まるでマイクが 私を阻んでいたこの舌に いつだって向けられているかのように 声を上げて魂がキレイに保てるなら それを洗う石けんなんて誰も要らないでしょう?
ありがとうございました
(拍手)
引用元:TED