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イスラム原理主義に対して平和的に戦いを挑む人々の抵抗は、人権をめぐる闘いの中でも世界で最も見逃されているものの1つだ/カリマ・ベノウネ

カリマ・ベノウネさんが、原理主義とテロリズムに対して、平和的に戦いを挑む全ての人々を支持すると声を上げるべき時は今だと強く訴えています。

(所要時間:約20分)

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動画の内容 (全文書き起こし)
カリマ・ベノウネ : 報道されないテロリズムの側面

皮むきナイフひとつで 武装したイスラム教グループから 父を守れるのだろうか? この問いに直面したのは 1993年6月の ある火曜日の朝 私が法学生だった時でした 私は父のアパートで 朝早く目を覚ましました アルジェリアのアルジェのはずれにある アパートの玄関を絶え間なく 叩く音がしました その当時 地元紙はこう書いていました 毎週火曜日には学者が 原理主義者の銃弾に倒れるのだと

父が大学でダーウィンについて 教えていたので いわゆるイスラム救国戦線の 幹部が教室を訪れ 父を生物学主義の擁護者として非難し 父がその男を追い出したこともあったのです そして ドアの向こうの誰かは 名乗りもせず 立ち去ろうともしません そこで父は警察に電話をしましたが 既にアルジェリア人警官の命を 多く奪っていた 武装した過激主義の高まりを 恐れていたのか 誰も電話に出ませんでした そこで私は台所へ行き 皮むきナイフを持ち出して 玄関で構えたのでした

実に馬鹿げていますが それ以外 思いつかなかったので 私はそこに立ちました 今思い返してみると この瞬間が この本を書く道へと 歩ませてくれたのでしょう 『あなたのファトワーは ここでは通用しない: イスラム原理主義との闘いの裏側で』 題名はパキスタンの戯曲に由来します 実に あの瞬間が およそ30ヵ国の 300人のイスラム教徒に インタビューを行う 旅路へと送り出してくれたのです

アフガニスタンからマリまで 彼らがいかに 父のように平和的な方法で 原理主義と闘ったか そして訪れる危険を いかに切り抜けたかを知るための旅でした 幸い 1993年6月の 身元も知れない訪問者は 立ち去りましたが 他の家族たちが同じように 幸運だったわけではありません この気持ちが私の研究に対する モチベーションとなりました

いずれにせよ 何者かが 数ヵ月後に戻ってきて 父のキッチンテーブルに 「自分はもう死んだと思え」 と残すことになります やがて アルジェリアの 原理主義武装集団は 20万人もの市民を殺害し 1990年代は 「暗黒の10年」として 知られるようになりました この女性たちの1人ひとりも 亡くなった市民に含まれています また政府は 厳しい対テロ対策の中で 拷問や強制失踪も 用いました これらの非道な出来事に加えて さらに 国際社会はほとんど これらの行いを無視しました

アルジェリアの農家の息子から 教授となった父は とうとう 大学で教鞭を振るうことを辞め アパートから出るよう強要されました しかし私は父である マフード・ベノウネが アルジェリアの多くの知識人と同様に 国を去ることを拒み 的を射た批評を出版し続けたことは 決して忘れません 原理主義について そして時には彼らが戦う 政府についてもです

例えば1994年11月の エル・ワタン紙に連載された 『原理主義からテロリズムが 生まれることがどれほど異例か』 というシリーズでは 先祖が守ってきた 本来のイスラム教から テロリストが極端に離れていることを 父は公然と批判しました この発言は殺される恐れさえ あるものでした

父の祖国が1990年代の 「暗黒の10年」に教えてくれたのは 「イスラム原理主義に対する 人々の抵抗は 人権をめぐる闘いの中でも 世界で最も見逃されているものの1つだ」 ということです これは20年経った今でも その通りです 市民を標的にする 武装したジハードの戦士の話のある どの国にも 武器を持たずに 過激派に抵抗する人々もいます 私たちの耳には入りませんが 彼らは私たちの支援を必要としているのです

西欧諸国では 多くの場合 イスラム教徒はテロリズムを容認していると思われています このように考える右派の人々は イスラム文化は本質的に暴力的だと考え 左派の人々は イスラム教徒の暴力や 原理主義の暴力は 正当な抗議の産物に過ぎないと考えています しかし どちらの見解も全く間違っています

事実 世界中にいる イスラム教徒の多くは 断固として 原理主義とテロリズムの どちらに対しても反対しており 大抵正当な理由があります 彼らはこの暴力において 加害者というよりもむしろ犠牲者です

ここで1つ 例を挙げてみましょう アラブ語圏メディアによる 2009年の調査では 2004年から2008年の間の アルカイダの犠牲者のうち 西洋人は わずか15%でした これもひどい人数ですが 犠牲者の大多数は イスラム系の人々であり 彼らはイスラム原理主義者に殺されたのです 5分間 原理主義について 話してきましたが 私が原理主義と言う語で 何を意味しているか お教えしましょう

アルジェリアの社会学者である マリエメ・エリ・ルーカスによる定義を引用します 彼女はこう述べています

原理主義とは― 複数形ですから 世界のあらゆる 宗教的伝統における原理主義とは― 「極右の政治的活動であり グローバル化という文脈において 自らの政治的目的を達成するために 宗教を巧みに操っているのだ」と サディア・アバスはこのことを 神学の過激な政治化と 呼んでいます

どこに行っても同じ 一枚岩のような イスラム原理主義が 存在しているというイメージを 与えることは避けたいと考えています なぜなら 原理主義活動も様々だからです 暴力を用い 擁護する者もいれば 両者は関係していることが多いとはいえ そうでない者もいます 様々な形をとるのです 非政府組織であることもあります ここイギリスにも 「ケージプリズナーズ」があります またイスラム同胞団のように 政党となることもありますし タリバンのような武装グループに なることもあります

しかし どの場合においても すべて過激な取り組みです 保守的でも伝統的でもないやり方です ほとんどの場合 人々とイスラム教の 関係を守るのでなく むしろ変えてしまうものです 私は極右のイスラム教徒について お話ししているのですが その支持者が イスラム教徒であると主張したところで 他の極右派と同様 攻撃的であることに変わりはありません

私の考えでは 私たちが 自由主義や左派 人権擁護者やフェミニストであるなら 私たちはこれらの活動に対して立ち向かい 草の根的に反対している人々を 支持すべきです はっきり言わせて下さい 私は原理主義に対して 有効に対抗することを支持していますが その闘いそのものが国際法を 配慮したものでなければなりません ですから私の発言が 民主化を拒絶することを 正当化するものであると 受け取らないでください

ここで支持の声を上げたいと思います 現在アルジェリアで行われている 民主化運動に幸あれと また私の発言は 様々な人権侵害 たとえば今週初めにエジプトで 多くの死刑宣告が 言い渡されたようなことを 正当化するものでもありません 私が言いたいのは こうしたイスラム原理主義運動に 立ち向かわねばならないということです なぜなら彼らはイスラム教徒が 多数を占める文脈において 人権を脅かしているからです

その方法は様々ですが 武装グループによる市民の直接攻撃が 最も明らかな例でしょう しかし そのような暴力は 氷山の一角に過ぎません これらの運動は全体として 宗教的マイノリティや 性的マイノリティに対する 差別を広めています 別のやり方で宗教を実践する人々からも 信仰しないことを選択する人々からも 宗教の自由を奪おうとしています そして典型的には 女性の権利に関する 全面戦争を先導するのです

近年 これらの運動に直面し 西欧諸国における言説では ほとんどの場合 2つの欠陥ある回答が提示されています 右派に時折見られる1つ目の言説は ほとんどのイスラム教徒が 原理主義的であるか イスラム教には本質的に 原理主義的なところがあるというもので これはただ攻撃的なばかりで 間違っています

しかし 残念ながら 左派に見られる言説は 政治的に公正すぎて イスラム原理主義の問題を全く認識しておらず 更に悪いことには それについて謝罪しており これも容認できるものではありません

ですから 私はこれらを語るための 実際に生きた経験と 前線にいる人々の希望に根ざした 新たな方法を探し求めています 痛切に感じられるのは 近年イスラム教徒に対する差別が イギリスやアメリカといった国々で 増えているということで それもまた深刻な問題です しかし 私は 原理主義者に立ち向かい 1番の犠牲者となっている イスラム教徒の人々に関する 固定観念を覆す話を語ることも 差別に反対する素晴らしい方法だと 強く信じています

ここで 光栄にも 素晴らしい物語をお持ちの4人を ご紹介しましょう ファイザン・ピアゼダと 彼の父にちなんで名づけられた レフィ・ピア・シアターワークショップは 何年にもわたり パキスタンで 舞台芸術を 推進してきました ジハードによる暴力の増加とともに 彼らはイベントを取りやめるよう 脅かされ始めましたが 屈しませんでした そして2008年に 爆撃犯が ラホールでの第8回世界舞台芸術祭を襲うと ガラスの雨が 会場に降り注ぎ 9人が負傷しました

その日の夜遅く ピアゼダらは とても難しい決断を下しました 舞台芸術祭を予定通り 翌日も続行すると発表したのです 当時 ファイザンが言ったように もしイスラム原理主義者に屈すれば ただ暗闇の角に座っているようなものなのです どうなるかは分かりませんでした

誰か来るのだろうか? 実際は 翌日何千もの人々が訪れ ラホールの舞台芸術を支援しました このことは素晴らしいとともに 恐ろしくもあったので ファイザンは幼い子を2人連れている ある女性に駆け寄り こう言いました

「昨日 ここで爆発があり 今日も恐怖に脅かされているのを ご存知ですか」

彼女は「知っています でも私はこの子たちくらいの年頃の時 母とあなたのフェスティバルに来たことが 印象深く 心に残っています 私たちはここにいなくちゃいけないんです」

このような熱烈な観客とともに ピアゼタらは予定通り フェスティバルを終えることができました そして次の年 安全面のリスクのため 彼らはすべてのスポンサーを失いました

2010年に私が会った時には 彼らは同じ場所で行うことができた 後に続く初のイベントの最中でした 第9回青年舞台芸術祭で その年 街はすでに 44回ものテロ攻撃を受けていました これはパキスタンのタリバンが 女子校を標的として 組織的な攻撃を始めた頃のことで マララ・ユサフザイの襲撃事件で 幕を閉じることとなります

この状況で ピアゼタらは何をしたと思いますか? 彼らは女子学生による舞台作品を 上演したのです 私は光栄なことに『ナン・ウォール』 という パンジャブ語のミュージカルを観ました ラホール・グラマー・スクールの 女子学生がすべての役を演じました 彼女たちは歌い 踊り ねずみや水牛の役を演じました 私はこの素晴らしい劇が 無事終わるかどうかと 息を飲んで見守りました そして無事 幕が下りると 観客は一斉に息をついて 中には涙を流している人もいました 観客席は観客の拍手という 平和な高揚感で満たされました

私はその瞬間 こう考えたことを 覚えています 「2年前にこの場所で爆撃犯が トップニュースとなったけれども 今晩 ここに居合わせた人々は それと同じくらいに重要なニュースなのだ」と

マリア・バシルはアフガニスタンで 初の そして唯一の女性主席検事です 彼女は2008年から この職についており 女性に対する暴力事件を調査するために 調査機関を設置しました 彼女は自らの任務の中でも 最も重要な領域だと語っています

ヘラートの彼女の事務所で会う時には 彼女は4挺の大きな銃を手にした 4人の大きな男性に囲まれて入ってきます 事実 彼女には今 23人のボディーガードがいます なぜなら 彼女は爆弾の攻撃を受けて 子供を殺されかけたからです その際 ボディーガードの1人は 片足を失いました

彼女はなぜ続けるのでしょうか? 皆に同じことを聞かれるのだと 彼女は微笑んで言います 「なぜ生きないという 危険を冒すのか?」と 彼女にとっては単に マリア・バシルの家族にとっての よりよい未来は 危険を冒す価値のあるものであり 自分のような人間が 危険を冒さなければ より良い未来は来ないのです

後にインタビューの中で バシル検事は私に いかに彼女が 自分を狙うタリバンと政府との 起こりうる交渉結果について 心配しているかを 話してくれました 「もし政府での居場所をタリバンに与えたら 誰が女性の権利を守るのでしょうか」 と彼女は問います そして国際社会に タリバンとの和平を築きたいからといって 女性との約束を忘れないよう 呼びかけています

私がアフガニスタンを経った数週間後 インターネットでトップ記事を目にします アフガニスタンの検事が暗殺されたと言うのです 必死でグーグルで調べると ありがたいことに マリアは 犠牲者ではないことがわかりました しかし悲しいことに 別のアフガニスタンの検事が 仕事に向かう途中に射殺されたのでした

私は今 そのようなトップ記事を耳にすると 今年以降 国際部隊が アフガニスタンを離れるからこそ 現地の人々やすべての マリア・バシルのような人々に 何が起きているかに 関心を持ち続けなければなりません

時々 彼女の声が頭の中で響きます 虚勢などではなく 彼女はこう言うのです 「アフガニスタンにおける 女性を取り巻く状況は いつか必ずよくなるでしょう 私たちはたとえ殺されたとしても その基盤を作らねばなりません」

アル・シャバブというテロ組織を 批判するに適切な言葉が見つかりません 彼らは2013年9月の 子供たちの料理大会が 行われていたのと同じ日に ナイロビのウエストゲート・モールを襲撃しました 詩人や妊婦を含め 67人が殺害されました

遠く離れたアメリカ中西部で 私は運良く ソマリア系アメリカ人に会いました アル・シャバブが少数の若者を ミネアポリスで勧誘して ウエストゲートのような残虐行為に 参加させようとする企てに対して 反対する活動をしていました

アブドリザク・ ビヒ氏の勉強好きな 17歳の甥 ブルハン・ハッサンは 2008年にここで兵士として採用され ソマリアへと誘拐され 帰国しようとしたら殺されたのです その時から ビヒ氏は 無予算のソマリア教育・権利擁護センターの 理事長でもありますが テロ組織による兵士の採用と 政府の失態と アブバカー・アサディク・イスラム教センターのような ソマリア系アメリカ人団体に対する 非難の声を上げ続けています

彼はこのセンターの青年プログラムを通じて 甥が原理主義に傾倒したと考えています しかし 彼はただモスクを 非難するのではありません 彼は政府の失態を糾弾し コミュニティーでの貧困を防ぐために もっと何かすべきだと批判しています

財源に乏しかったので ビヒ氏には創造力が必要でした 不満を抱く若者に影響を与えようという アル・シャバブの企てに反対するため ウガンダのワールドカップ観戦者らに対する 2010年の集団攻撃に続いて 彼はそれに応えるようにミネアポリスで ラマダン・バスケットボール選手権を計画しました

たくさんのソマリア系アメリカ人の子供たちが スポーツに参加しました ファトワーでは禁じられているにも拘らず ブルハン・ハッサンには 二度とできないバスケットボールを 彼らはやったのです このことにより ビヒ氏は かつては良好な関係を築いていた アブバカル・アサディク・イスラム教センターの 指導者によって追放されました

彼が言ったことには 「ある日 テレビでイマームが 私たちを異端者だと呼んで 『彼らはモスクを破壊しようとしている』 と言っていた」のだそうです これはアドリザク・ ビヒ氏が アル・シャバブによる兵士採用を減らすことで 達成しようとしていることとは まったく食い違っています 彼は私の愛する宗教を 少数の原理主義者から 守ろうとしているのです

最後にもう1つお話ししたいと思います アルジェリアの22才の法学生である アメル・ゼヌーン=ズアニは 私が90年代にそうであったように 法律家としてのキャリアを夢見ていました 彼女は勉学を諦めることを拒みましたが 原理主義がその頃 アルジェリアを取り戻すために戦い 教育を受け続ける者全てを脅かしていました

1997年1月26日 アメルは学校に通っていたアルジェでバスに乗り ラマダンの夜を家族と過ごすために 家に向かい ロースクールを卒業することは ありませんでした バスが彼女の家のある 郊外まで来たとき 武装イスラム集団の人々に 占拠された検問所で止められました アメルは学校かばんを手に バスから降ろされ 路上で殺されました

彼女の喉を切り裂いた男は 他の乗客に言いました 「お前たちが大学に行けば こんな風にお前たちを全員 殺す日が来るぞ」 アメルは午後5時17分きっかりに亡くなりました 路上で倒れた時に 彼女の腕時計が壊れたので そう分かるのです 彼女のお母さんは秒針が 決して訪れることのない 5時18分に向けて 悠然と上を向いている その時計を見せてくれました

死の直前に アメルは母親と 姉妹たちにこう言ったそうです 「アラーの思し召しがあれば 私たちには何も起こらないわ でも もし何かあったら 私たちは知識のために 命を失ったのだと思ってね お母さんもお父さんも 胸を張り続けていてね」

このような若い女性を失うことは 深くはかり知れず ですから私は研究をしました 私はアメルの希望を再び見出そうと努め そして彼女の名は実に アラブ語で「希望」という意味なのです

私は希望を2つの場所で見つけました 1つ目は彼女の家族や他の家族が この話を語り継ぎ続け テロにも屈さず生活を続けていく 強さの中にです 事実 アメルの妹 ラミアは悲しみを乗り越え ロースクールへと行き 現在ではアルジェで弁護士をしています これが可能であったのは ひとえに 武装した原理主義者が アルジェリアではぼ敗れたからです

私がアメルの希望を見つけた 2つ目の場所は 男性も女性もジハードの戦士に 立ち向かい続けている全ての場所でした 私たちはアメルに敬意を表し 「イスラム法の下に生きる女性たち」の ネットワークのように 現在でも人権に関する戦いを 続けている人々を支援すべきです

被害者の権利が主張しているように テロと戦うだけでは十分ではないと シュリファ・ハダールにアルジェで言われました 私たちは原理主義に 戦いを挑まなければなりません なぜなら原理主義は テロリズムの温床となる イデオロギーだからです

なぜアメルや彼らのような人々が もっと知られないのでしょうか? なぜオサマ・ビンラディンが誰かは 皆知っているのに その背後でビンラディンらに抵抗して 立ち上がっている人々については ほとんど知らないのでしょう? 私たちはこの状況を 変えていかなければなりません ですから あなたのネットワークを通して これらの話を共有して欲しいのです

もう一度アメル・ゼヌーンの時計を見て下さい 永遠に止まったままです あなたの時計を見てください 今この瞬間が アメルのような人々を支援していく 時だと決意してください 彼らについて沈黙する権利は 私たちにはないのです より簡単だからとか 西欧諸国の政策の欠陥は理由になりません なぜなら 5時17分は今もなお 学生が今でもジハードによって殺されている ナイジェリア北部のような場所で あまりに多くのアメルたちの 元に近づいているのです

自らのコミュニティにおいて 原理主義とテロリズムに対して 平和的に戦いを挑む全ての人々を 支持すると声を上げるべき時は 今なのです

ありがとうございました (拍手)

引用元:TED

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