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<証言記録・兵士たちの戦争> 「王道楽土を信じた少年たち ~満蒙開拓青少年義勇軍~」

2010年4月24日に放送された、NHK <シリーズ証言記録> 兵士たちの戦争「王道楽土を信じた少年たち ~満蒙開拓青少年義勇軍~」を紹介します。

(所要時間:約43分)

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動画の内容
あんな勧め方をしなければ、子どもたちも満州へ行く気にならなかった

満蒙開拓青少年義勇軍は、満州(現・中国東北部)の開拓と警備を未成年者に担わせるため創設された。「王道楽土を建設し、五族協和を実現する」というスローガンを信じ、全国から8万6千人もの少年が大陸へ渡り、そのうち約2万人が命を落とした。

全国で最も多いおよそ7000人もの少年たちを義勇軍に送りだしたのは長野県だった。昭和19年(1944年)6月には長野県中部地方から217人の少年たちが満州へ渡った。満蒙開拓青少年義勇軍、第七次斉藤中隊。中隊長・斉藤義男(よしお)ら大人の幹部6人が率いていた。

少年たちは当時、14歳から16歳。彼らが暮らした山村では多くの農家が狭い耕地や小作料の重圧にあえいでいた。長野県での義勇軍の募集は主にこうした貧しい農家の次男・三男を対象に行われた。少年たちの多くは学校の教師によって義勇軍への入隊を呼びかけられた。義勇軍に入れば3年後、満州で土地を与えられ入植できることになっていた。

第七次斉藤中隊は満州北部の嫩江(のんこう)の訓練所に入り、その後、モンゴルとの国境に近い興安に移っていた。そして昭和20年8月9日、ソ連軍が満州に侵攻すると少年たちは350キロ先の新京をめざし撤退を開始。15日の終戦も知らず、反日感情に満ちた現地住民との戦闘を繰り返しながら逃避行を続けた。

9月5日、少年たちはソ連軍に投降したが苦難は続いた。幼かったためシベリアでの強制労働は免れたものの、頼れる大人もいないまま興安やチチハルといった厳寒の地に放り出されたのだ。粗末な難民収容所で寒さと飢え、病気などで次々と命を落としていった。

少年たちは生き残るために現地の農家や商店で働いた。中国の軍隊に入隊し10年近く帰国できなかった者もいた。斉藤中隊の217人のうち121人が大陸で命を失った。

引用元:NHK 戦争証言アーカイブス

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